『ダンダダン』を観ていると、「この街はどこだろう」と思う瞬間があります。
見慣れた住宅街の風景なのに、どこか落ち着かない。
実在のモデルがあるようで、はっきりとは断定できない。
その曖昧さこそが、この作品の魅力なのではないかと私は感じました。ちなみにももの実家の神社は田舎のようにも見えます。しかし、もものばあちゃんである綾瀬星子は実際に「川越市内でしか自分の力は使えない」と言ってるので埼玉のどこかである可能性が高いのでは?と私は思います。
ダンダダンに明確な聖地がない理由
ダンダダンの舞台は、日本の郊外住宅地を思わせる景色が中心です。
しかし特定の駅や商店街が強調されることはありません。
それは、特定の街を描くことよりも、「どこにでもある日常」を描くことが目的だからではないでしょうか。
怪異が現れるのは、特別な場所ではなく、私たちが普段歩いているような道や家の中です。
いつも見る場所、見慣れた景色に感じる異変だからこそ恐怖が生まれる。
ダンダダンはオカルトや怪異を念頭に置いてるので“巡礼地”として固定しないことが、物語の普遍性を守っているのだと思います。
聖地巡礼を探すよりも、「なぜこの街に異変を感じるのか、落ち着かないのか」と考えるほうが、この作品には合っている気がします。
住宅街という舞台装置
ダンダダンで描かれる街並みは、決して派手ではありません。
高層ビル群でもなく、観光地でもない。
少し古さの残る住宅街、狭い路地、静かな夜道。
私はこの“普通さ”がとても印象に残りました。
日常の延長線上に怪異が現れるからこそ「自分の街でも起きるかもしれない」と感じてしまう。
その距離の近さが、この作品の怖さを支えています。
もし巡礼をするなら、有名スポットを探すよりも、夕暮れの住宅街を歩いてみることのほうが近い体験になるかもしれません。それこそ神社の周辺などを散策するのも何らかのパワーや力を感じることができるかもしれません。
なぜダンダダンの街は“既視感”があるのか
観ていて不思議なのは、「知らない街なのに懐かしい」と感じることです。
それはおそらく、日本の郊外に共通する風景が丁寧に描かれているからでしょう。
広すぎない道幅、少し雑然とした電線、生活感のある建物。
それらは特定の地域ではなく、“集合的な記憶”に近い。
だからこそ、誰の心にも引っかかるのだと思います。
私は、初めて観たときに「この感じ、知っている」と思いました。
でもどこなのかは説明できない。
その曖昧さが、逆にリアルなのです。
日常と怪異の“境界線”
ダンダダンが面白いのは、怪異と日常がきっぱり分かれていないところです。
昼間の学校生活と、夜の非日常が、同じ街の中で地続きになっています。
境界線は明確ではなく、ふとした瞬間に崩れる。
その不安定さが、この作品のリズムを生んでいます。
正直に言うと、私は派手な戦闘シーンよりも、何も起きていない住宅街のシーンのほうが印象に残っています。
そこにこそ、オカルトや怪異がメインのこの物語の核心がある気がするからです。
ダンダダン的・聖地巡礼の楽しみ方
ダンダダンの巡礼は「ここがモデル」と写真を撮る旅ではありません。
むしろ、どこにでもある街を歩きながら、「この角を曲がったら何か起きそうだ」と想像する時間に近いでしょう。
夕暮れの空、静かな住宅地、少し人気の少ない路地。
そうした場所に立つと、作品の空気がふと重なります。
特定の聖地がないからこそ、自分の街がそのまま舞台になる。
それがダンダダンという作品の面白さなのだと、私は感じています。
まとめ|ダンダダンの舞台は“あなたの街”かもしれない
ダンダダンには、断定できる聖地はありません。
しかしそれは欠点ではなく、むしろ物語を広げるための仕掛けのように思えます。
怪異は遠い世界ではなく、日常のすぐ隣にある。
日常にいきなり遭遇するかもという意識が向くから強く心に残るのです。
もし巡礼をするなら、遠くへ行く必要はないかもしれません。
いつもの帰り道を、少しだけ意識して歩いてみる。
そこにダンダダンの世界は重なっているはずです。

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